老人は風博士と呼ばれていた。とある大学の地球科学教授であったが,風変わりなことに彼の専門分野は風である。在職中から学内では変人と噂され,彼の研究室には学生が殆どいなかった。そんな研究しても就職先が無いことは誰の目にも明らかだった。口の悪い連中は,そこは風が停止した夕凪研と陰口する始末である。
彼は風を測定する装置「風分光器」を開発し,それを担いでは熱帯や砂漠,太平洋,そしてビルが林立する都会へと観測に出掛けた。風分光器は風の諸性質を測定し,ノートパソコンの画面に色彩としてスペクトル表示する。風博士は単に空気の流れに過ぎない風のデータを収集し,それを科学的に分類し分析した。
そんな風博士もやがて定年となり,今では風分光器を使ってこつこつと自宅の近くで風の観測を続ける日々である。もう初夏の陽気が広がる5月の休日,風博士は岬の防波堤に風分光器を据え付け,潮風を測定していた。
画面にはありふれた風のスペクトルが表示されている。時々刻々と変化するものの,新しいことは見つかりそうにない。もう世界中の風を殆ど研究し尽くしたんだ。風博士はデータの記録を停止し,防波堤に腰掛け,海の風を感じながら画面を漫然と眺めていた。
太陽が傾き,次第に風が変わってくると,画面の端に小さな変化が現れた。今までに見たこともない極彩色のスペクトルが,ちらちらと見え隠れしている。この風はいつもの風と違う。風博士は立ち上がり,データを記録しようとパソコンに向かったその瞬間,猛烈な胸の痛みが彼を襲った。
直感で助けを呼ばないと危険だと感じた。ポケットから携帯を取り出したその時のこと。激しい苦しみに歪む彼の顔を鋭い風が過ぎり,風分光器が新しい風に反応している。単色のオーロラのようなスペクトルをなびかせたかと思うと,次第にあちこちで眩い閃光が煌めく。
携帯を投げ捨て,胸の痛みと呼吸の苦しさを耐えながら何とかしてデータ記録ボタンを押そうとパソコンに手を伸ばすも,目前に広がる色鮮やかな光がめまぐるしく変化する様子に目を見開き,そのまま倒れこんだ。
やがて防波堤に吹き付ける風はゆっくりと落ち着きを取り戻し,同時に画面の光も夕凪のごとく停止した。
