毎朝同じ車両の同じドア横で文庫本を読む女性が,ずっと気になっていた。本にはカバーがかかっており,何を読んでいるのかはわからない。僕が電車に乗り込む時,読みかけの文庫本を胸に伏せるようにあてて体を避け,3つ先の駅で大きな人の流れと共に消えていく。そんな姿をこっそりと見るのがささやかな非日常になっていた。
そしてある日,僕はいたずらを決行した。彼女の斜め後ろに立つと,3つ先の駅を待った。ドアが開くと同時に彼女のバッグの中へ一冊の文庫本を落とした。川端康成の小説だった。人混みに押されながら駅の階段を降りていく姿から,計画が上手く行ったことを確信した。
翌朝,そこにはいつものように文庫本を読む彼女の姿があった。ただ違ったのは,本にカバーがかかっていなかったこと。彼女はあの川端康成の小説を読んでいた。僕は素知らぬ顔で車両の奥へ進んだ。
数日後,残りページが少なくなったのを確認し,また彼女のバッグに文庫本を落とした。これも美しい文体で書かれた古い小説だった。そして翌朝,彼女が胸に伏せていたのはその本だった。
5月の連休に入ると,そんないたずらもしばし中断である。僕は3つ先の駅の町にある大きな書店の文庫本コーナーへと向かった。僕が選んだ本を彼女が読む姿を想像すると,不思議な達成感のようなものがこみ上げてくる。でもこんなストーカーのようなことをしている自分にとって,彼女が遠い存在であり続けることも分かっていた。
文庫本棚の一端まで歩くと,そこには「店員お薦め」の本が並んでいる。どうせ最近のベストセラー本だろうと思ったら,そうでは無かった。
そこに並んでいた文庫本は,僕がずっと彼女のバッグへ忍び込ませ続けたあの古い小説たちだった。一冊一冊,その店員さんの短いけれど暖かい感想文が書き添えられていた。店員さんの推薦文が,まるで僕への手紙のように思え,顔から火が出るように感じてきたその時,背後から声がした。
「次の本は見つかりましたか?」
僕は顔が真っ赤になって振り返ることができなかった。